安永の高利金事件 概要


 国立国会図書館デジタルコレクション 三代関 下 55〜57/61

 〔発端〕

 30代江戸惣録・三澤検校の代のこと、安永7年(1778)8月中旬、御書院番の森忠右衛門という旗本が座頭仲間や浪人どもから多額の借金をして出奔した。妹婿にあたる浅草祐念寺に隠遁し、菩提寺の寿速寺で剃髪した。
 その頃、剃髪姿の盗賊が捕らえられた件があったため、森忠右衛門も同様のものとの嫌疑がかかったが、忠右衛門は自ら訴え出て、多額の借金のためにやむなく出奔したと述べて吟味を願い出た。


 〔その後の経過〕

 その後の捜査により座頭・浪人の関与が明らかになり、多数の者が摘発されて入牢した。

 【9月12日】
 揚屋 ―― 梅浦検校、栗沢勾当、丹羽勾当
 入牢 ―― 神一、志だ一、千代之一、浪人・吉田力(主税)、桶川佐吉(佐七)、石川友七郎(友七)、鳥山検校の手代2人

 【9月16日】
 揚屋 ―― 鳥山検校
 入牢 ―― 同弟子・春木一、春勝

 【9月20日】
 揚屋 ―― 松浦検校、松岡検校、名古屋検校

 【9月24日】
 揚屋 ―― 相馬検校

 【9月30日】
 入牢 ―― 俗盲・玄春、浪人・板橋四郎右衛門、小倉幸助

 【10月2日】
 入牢 ―― 浪人・(小泉)茂左衛門

 【10月8日】
 揚屋 ―― 上山(神山)検校

 【10月16日】
 揚屋 ―― 川西検校
 入牢 ―― その他、浪人の妻・家来など多数

 11月9日、森忠右衛門親子は改易の上、追放を仰せ付けられる。森忠右衛門をかくまった勇念寺(祐念寺)は追院、菩提寺の寿速寺は忠右衛門を出家させた科により闕所追院。


 〔落着〕

 12月25日に判決申し渡しがあったが、それ以前にすでに牢死した者は、名古屋検校、丹羽勾当、神一、吉田力、玄春の5人(吉田は申し渡し当日の12月25日に死亡)。残りの浪人どもは遠島仰せ付け、当道所属の検校ならびに他の者どもは座法にしたがって惣録へ引き渡された。

 翌年2月9日、惣録役所は、検校・勾当以下の者を不座の上、三ヶ津構に、鳥山検校を四ヶ津構に申し付けた。


金融と座中の改革

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