当道用語集 さ〜そ



さいじきしゅうぶん【才敷衆分】

 七十三刻のうちの下から4番目の階位で、座頭の最下位。この階位以上になると○○座頭と称された。無官の者が才敷衆分になるためには官金12両を要した。→ 七十三刻 を参照。

ざいみょう【在名】

 〔1〕座頭の名字にあたるもの。四度の座頭以上になると、都名に前に在名をつけることが許される。 たとえば「杉山和一」という名の座頭がいたとすると、三度までは在名がなく「和一座頭」と呼ばれるが、四度になると「杉山座頭」と在名で呼ばれる。

 在名は本来は生国や居住地の地名をつけるのが通例で、「八坂殿」(城玄)、「坂東殿」(如一)、「明石殿」(覚一)などと呼ばれた。近世以降は、士分出身の者にあっては本姓をそのまま在名とすることもあった。杉山和一の「杉山」は本姓を在名とした例である。 また、師匠の在名の一字を継承する例も多く見られた。代表的なものでは、杉山和一の弟子の「杉岡」、「杉枝」、「松山」など、山田斗養一の弟子の「山木」、「山登」、「山勢」などがある。 近世後期には師の在名をそのまま襲名することもあり、大坂では中筋の「津山」、「中川」などが、江戸では前述の山田流各派の家元が、代々同じ在名を名乗った。

 〔2〕在名を名乗ることのできる四度の座頭の別称。→ 七十三刻 を参照。 

ざいり【座入り】

 当道に加入した盲人が衆分の地位に昇進すること。 衆分になるためには、計12両の官金が必要であった。打掛を経ずに、いきなり衆分になることを粒入りという。

ざおち【座落ち】

 官位の昇進ができなかった者に対する一定の権利の剥奪。座の構成員には官金を納めて昇進することが奨励されていたが、5年を経ても昇進しない者は座落ちとされた。  座落ちは、配当の受け取りなどに関して制限が加えられたもので、除名や降格処分などではない。

ざとう【座頭】

 〔1〕当道の階級である四官の一。 座頭の中は下から順に、一度、二度、三度、四度の四つに区分され、さらに細かくは15刻目があった。 一度から三度までの下位の座頭と、最上位の四度との間には待遇にかなりの差があった。→ 七十三刻 を参照。

座頭の階級
4官16階通称73刻
座頭一度衆分 4才敷衆分
5(萩の)上衆引
6中老引
7
二度 8上衆引
9中老引
10
三度11上衆引
12中老引
13
四度在名 または 四度14上衆引
15送り物引
16大座引
17中老引
18
 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,p.180〜181 より作成

 〔2〕外部の人々からは、当道に所属する盲人全般がその階級に関わらず「座頭」と総称されることがあった。

ざなおり【座直り】

 座落ちの状態であった者が新たな官位を得て現座に復帰すること。→ 現座。

さんが【参賀】

 5年に一度、惣検校や惣録の所に出向いて謁見すること。座の構成員であることの登録・確認。参賀の際に、官位の昇進に必要な官金よりも低廉な費用を納めることによって、座の構成員であることを維持することができた。参賀は極めて重視され、参賀を怠る「参賀落ち」は不座とされた。

しおきやく【仕置役】

 大名領分程度の範囲に置かれた当道の地方組織を統轄する者。支配役。

しおきやしき【仕置屋敷】

 各地の仕置役(支配役)が執務にあたる屋敷。仕置役の公邸。

しかん【四官】

 当道の階級を大きく四つに分けて四官という。 上から順に、検校、別当、勾当、座頭。ただし、当道内には座頭の下に、四官に属さない打掛という階級もあった。→ 七十三刻 を参照。

しき【職】

 職検校(職惣検校)のこと。また、職検校が住する職屋敷のこと。職検校は座内の最高位者で「御職」と尊称された。

しきけんぎょう【職検校】

 中世以後、惣検校の地位にある者を職といい、職検校は惣検校と同義であった。 しかし、元禄5年(1692)に将軍徳川綱吉によって杉山和一(寛文10年権成)が惣検校に任命されると、惣検校が職検校と分離され、当時の職惣検校であった久永弾一(正保3年権成)は職役のみとなった。惣検校が将軍の任命で江戸在住であったのに対し、職検校は従来どおり座順にしたがって継承され、京都の職屋敷で執務にあたった。

 享保21年(1736)に江戸の惣検校が廃止されて、再び京都の職検校が惣検校を兼ねることとなった。

しきじ【職事】

 当道職屋敷において、事務をつかさどった晴眼者。

しきそうけんぎょう【職惣検校】

 惣検校のこと。惣検校は「職」と称され、惣検校と職検校は同一の人物であり、同義であった。

しきやしき【職屋敷】

 職惣検校が住し、十老が執務にあたった、当道の最高機関としての機能を有していた役所。近世初期までは京都の五条坊門通(現在の仏光寺通)東洞院の西にあり、のちに東洞院通の東側(現在の京都市立洛央小学校付近)に移った。

しちじゅうさんきざみ【七十三刻】

 当道の階級は全部で73の刻目に細分化されるといわれる。 そのうち、名称を持っている階級は67で、残る6階級が何であるかは諸説ある。

当道の階級と官金・服装・呼称
四官十六階通称七十三刻官金服装呼称
初心(無官)15歳以上は単袴。
羽織は禁ず。
城方には千・三・長・慶など、
一方には春・了・清・弥などを頭や尾に付す。
打掛 1半内掛  4両浅黄あるいは萌黄麻長絹、紅菊綴をかざる。
袴同色麻。
白小袖・羽織は禁ず。

杖は白木杖。
何一、城何と名乗る。
2丸内掛  3両2分
3過銭内掛    2分
座頭一度衆分 4才敷衆分  4両白絹あるいは長絹、紫菊綴を付す。
袴白絹あるいは羽二重。
白小袖は禁ず。

白木玉杖。
何一座頭、城何座頭と名乗る。
5(萩の)上衆引  4両
6中老引  4両
7 20両
二度 8上衆引  6両
9中老引  6両
10 30両
三度11上衆引  4両
12中老引  4両
13 20両
四度在名 または 四度14上衆引 22両紫の菊綴を付けた白綾長絹
(綸子・紗綾ちりめんの類で調える)。
袴白綾、菊綴なし。
これより白小袖着用。

塗木玉杖。
何座頭何一、何座頭城何と苗字を名乗る。
15送り物引  6両
16大座引  3両
17中老引  6両
18 25両
勾当一度過銭勾当19過銭之任じ  3両背中に紫菊綴一つ付けた長絹。
衣は着用せず。

これより片撞木杖。
何勾当と苗字を名乗る。
20上衆引 17両
21 10両
二度送物勾当22百引 10両これより衣着用。黒素絹白袴。紗紋をかぶる。

片撞木杖。
23上衆引  6両
24  4両
三度掛司
(三度より中老ともいう)
25三老引    1分
26五老引    1分
27十老引    2分
28上衆引  6両
29  5両
四度立寄30五十引  5両
31上衆引  5両
32  5両
五度召物33三老引    1分
34五老引    1分
35十老引    2分
36上衆引  4両
37中老引  5両
38 25両
六度初の大座39三老引    2分
40五老引    2分
41十老引  1両
42上衆引  8両
43中老引 10両
44 40両
七度後の大座45三老引    2分
46五老引    2分
47十老引  1両
48上衆引  8両
49中老引 10両
50 40両
八度権勾当51上衆引 10両
52中老引 10両
53 30両
別当権別当検校54上衆引 10両燕尾・紫衣を着用。

両撞木杖。
何検校と苗字を名乗る。
55中老引 10両
56 30両
正別当57上衆引 10両
58中老引 10両
59 30両
惣別当60惣別当任じ 20両
61上衆引 10両
62中老引 10両
63 30両
検校検校64検校任じ 45両紫素絹白長袴、浅黄小柳奴袴。

両撞木杖。
65上衆引 10両
66中老引 10両
67 30両
合計719両
 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,p.180〜181,p.197 より作成

 73刻の残りの6刻については諸説ある。
 (1)六老から一老までとする説。
 (2)若頭、十老、五老、三老、二老、職とする説。
 (3)六派を六刻とみる説。
 (4)惣別当、検校のうち、「任じ」を除いた六刻を「むら晴」「惣晴」の2回に分けて分納するため12刻と数える説。

 加藤康昭はこれらのうちの(4)を妥当なものとしているが、それに従えば、「60 惣別当任じ」以降の階位は次のようになる。

4官16階通称73刻
別当惣別当検校60惣別当任じ
61上衆引 むら晴
62上衆引 惣晴
63中老引 むら晴
64中老引 惣晴
65晴 むら晴
66晴 惣晴
検校検校67検校任じ
68上衆引 むら晴
69上衆引 惣晴
70中老引 むら晴
71中老引 惣晴
72晴 むら晴
73晴 惣晴

しど【四度】

 四度の座頭。座頭の最上位で在名とも称した。→ 七十三刻 を参照。

しどうは【師堂派】

 当道の六派の一。第4代職惣検校・疋田仙一(法名・師堂心超大徳)を派祖とする。

しはいやく【支配役】

 当道の地方組織の統括者。仕置役。

しゃくとうえ【積塔会】

 当道の祖とされる人康親王歿後の仁和2年2月17日に、盲人に検校・勾当の二官が宣下されたという伝承に基づき、その前日の2月16日夜に行われた人康親王の追善供養の法会。涼会とともに二季の塔といわれ、当道の最も重要な年中行事のひとつであった。

 積塔会は京都の風物詩のひとつとして知られ、多くの見物人が集まったという。俳句でも春の季語として扱われている。

しゅうぶん【衆分】

 当道の階位。一度から三度までの座頭の通称。 あるいは、特に、座頭の最初の位である才敷(彩色)衆分を指す。→ 七十三刻 を参照。

じゅうろう【十老】

 検校のうち、座順の上位の10人をいう。十老となった検校は住国から上京して、京都の職屋敷で執務した。

じゅうろくかい【十六階】

 当道の階級である四官をさらに細分化すると、検校に1、別当に3、勾当に8、座頭に4の階があり、合計すると16階になる。→ 七十三刻 を参照。

じょうかた【城方】

 八坂方の別称。「城○」と称することから。→ 八坂方。

じょうしゅう【上衆】

 検校の別称。

じょうしゅうびき【上衆引】

 当道の階位。七十三刻の中にこの名称を持ったものがある。 上衆引に昇進するために納められた官金は、上衆(検校)に分配された。

じょうふさん【常不参】

 十老入りした検校が病気・高齢などのために座を退くこと。惣検校の場合は常不参とは言わず隠居と言った。

しょしん【初心・初身】

 なんらの官位も有していない無官の者。七十三刻のうちには数えられない。

しんげつき【心月忌】

 応安4年(1371)6月29日に歿した初代惣検校・明石検校覚一(法名・心月本明大徳)の忌日。明石覚一は一方の検校であるので、一方各派(妙観・師堂・源照・戸島)の検校が出仕する。
 正月25日(29日か?)には心月忌始めが行われた。

すずみ【涼】

 涼塔会の別称。→ 涼塔会。

すひん【師兄】

 師弟関係を共有する弟子たちのうちの年長者。

せいじゅあん【清聚庵】

 京都の高倉通松原付近にあった明石覚一の位牌所。

せきな【せき名・関名】

 〔1〕 名乗ることを禁じられた名。元は当道式目の規定に「名をせく」という動詞の形で現れる語である。「せく」の語義は未詳であるが、内容から「襲名を遠慮する」といった意味であると受け取れる。「せき止める」「関(関所)」「堰」などと同源の語であると考えられる。

 都名については三代にわたって「名をせく」という規定があり、坊主、祖父坊主及び曾祖父坊主と同じ都名を名乗ることは禁じられていた。在名については襲名を禁止する規定はないが、ある者がすでに名乗っている在名は、別の者が同時期にそれを名乗ることはできなかった。たとえば、塙保己一(天明3年権成)は本姓が荻野であるが、同じ時期に先に検校となっていた荻野知一(明和2年権成)がいたため「荻野検校」を名乗ることはできず、坊主である雨富検校(須賀一:宝暦6年権成)の本姓の塙を在名とした。 また、惣検校の在名・都名については、末代に至るまで「名をせく」とされていた。

 〔2〕 都名(いちな)と同義に用いられた。この用法では「関名」という字が当てられる。

そうけんぎょう【惣検校・総検校】

 検校の中の最長老・最上位の者をいう。明石覚一が当道の組織を確立して初代の惣検校になったともいわれるが、覚一が惣検校であったという記録はなく、『教言卿記』応永14年(1407)に「惣検校慶一」とあるのが文献上における惣検校の初見である。慶一は在名を塩小路といい、明石覚一の孫弟子にあたる。

 惣検校の地位にあった者は職とも呼ばれ、惣検校と職検校は同義であった。しかし、元禄5年(1692)に将軍徳川綱吉によって杉山和一が検校の順位27番目から抜擢されて惣検校に任命されると、惣検校(惣検校)は職検校と分離されて別々のものとなった。 惣検校は江戸で、職検校は京都で、それぞれ執務し、両者の関係では惣検校が上位とされた。江戸の惣検校は、杉山和一のあと、三島安一、島浦益一と3代、44年間存続したが、享保21年(1736)2月をもって廃止され、3月から新たに江戸惣録が置かれた。

そうはれ【惣晴】

 検校の晴(検校の最上位)までの官金をすべて納めた者をいう。→ 七十三刻 を参照。

そうろく【惣録】

 江戸惣録の略。→ 江戸惣録。

そうろくやくしょ【惣録役所】

 杉山和一が拝領した本所一ツ目の1890坪の地に置かれた江戸惣録の公邸。江島神社(現 江島杉山神社)の東側にあたる。

そふぼうしゅ【祖父坊主】

 師匠(=坊主)の師匠(=坊主)。


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