座頭、勾当の上に位置する官は別当である。しかし、実際には四官の別当と検校を合わせて検校と呼び習わしていた。 別当は名目上の存在に過ぎず、実質的には検校の一部である。
「十六階」では、別当に3階、検校に1階あるが、以下のようになる。
[54] | 3−1−1. | 権別当上衆引 | 10両 |
[55] | 3−1−2. | 同 中老引 | 10両 |
[56] | 3−1−3. | 同 晴 | 30両 |
[57] | 3−2−1. | 正別当上衆引 | 10両 |
[58] | 3−2−2. | 同 中老引 | 10両 |
[59] | 3−2−3. | 同 晴 | 30両 |
[60] | 3−3−1. | 総別当任じ | 20両 |
[61] | 3−3−2. | 総別当上衆引 | 10両 |
[62] | 3−3−3. | 同 中老引 | 10両 |
[63] | 3−3−4. | 同 晴 | 30両 |
[64] | 4−1−1. | 権検校任じ | 45両 |
[65] | 4−1−2. | 同 上衆引 | 10両 |
[66] | 4−1−3. | 同 中老引 | 10両 |
[67] | 4−1−4. | 同 晴 | 30両 |
これで67刻。73刻にはあと6刻足りない。 残る6刻が何であるかについては諸説あるようだが、これに正検校5刻と総検校を加えて合計73刻とするのが、従来ひろく唱えられてきた。
正検校5刻とは六老から二老までの5人、その上の一老が職惣検校である。 この考え方に従うならば、表の続きは次のようになる。
[68] | 4−1−6. | 正検校六老 | |
[69] | 4−1−7. | 同 五老 | |
[70] | 4−1−8. | 同 四老 | |
[71] | 4−1−9. | 同 三老 | |
[72] | 4−1−10. | 同 二老 | |
[73] | 4−1−11. | 総検校一老 |
ただし、これには異説もある。
『日本盲人社会史研究』は、上記の六老から総検校までを6刻と数える説を含む諸説を紹介した上で、それらの中でも以下に述べる説を最もふさわしいとしている。*
* 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,未来社,1974.p179
総別当と権検校のそれぞれに、上衆引、中老引、晴という位階がある。 この6つの位階を得るのに必要な官金は2回に分けて分納するため、これらは2刻ずつとして数えられた。そうすると、次のようになるのである。
[60] | 3−3−1. | 総別当任じ | |
[61]→(61) | 3−3−2−1. | 同 上衆引 | |
→(62) | 3−3−2−2. | (同) | |
[62]→(63) | 3−3−3−1. | 同 中老引 | |
→(64) | 3−3−3−2. | (同) | |
[63]→(65) | 3−3−4−1. | 同 晴 | |
→(66) | 3−3−4−2. | (同) | |
[64]→(67) | 4−1−1. | 権検校任じ | |
[65]→(68) | 4−1−2−1. | 同 上衆引 | |
→(69) | 4−1−2−1. | (同) | |
[66]→(70) | 4−1−3−1. | 同 中老引 | |
→(71) | 4−1−3−2. | (同) | |
[67]→(72) | 4−1−4−1. | 同 晴 | |
→(73) | 4−1−4−2. | (同) |
以上で合計73刻。[54]権別当上衆引から[67](73)権検校晴までの官金の合計は265両。それ以前の分と合わせて総額719両である。
このページの表に掲げた[54]権別当上衆引から上が検校と総称される。 検校に昇進する場合、通例では数刻をまとめて上がり、ひとまず[60]総別当任じになる。これを「権成」という。 検校と呼ばれる人たちには位階によるランクの上下はなく、序列は「権成」の順序による。 そして時間の経過に従って、古参の検校が死亡または隠居することによって、順位が繰り上がっていく。
勾当の最上位から数えても、[60]総別当任じまでに要する官金が120両、この先、[67](73)権検校晴まで、さらに145両もかかる。
検校の中で、残りの145両を全納して最上位の権検校晴に到達した者を「惣晴」という。 「権成」から「惣晴」まで、短期間で昇進した検校もいれば、10年、20年といった歳月を要した検校もいる。 勾当から一気に「惣晴」になった検校もいれば、最後まで「惣晴」には届かなかった検校もいる。
さて、先の会沢検校の昇進の足どりを振り返ってみたい。 36歳で四度(在名)、40歳で勾当、その後検校になったとはいえ、検校(総別当任じ)昇進は寛保3年(1743)で63歳、最上位の「惣晴」になった宝暦5年(1755)には75歳、かなりの高齢である。 一生をかけてこつこつと財を築き、検校になるという夢を果たした人というべきか。 会沢検校は、足かけ10年間、惣晴検校の座にあって、宝暦14年(1764)に歿している。
このように、人生の最終盤になって検校に到達する人もいれば、若いうちに検校に昇進した人もいる。
八橋検校は26歳で検校になっている。菊岡検校は15歳で検校になった。 莫大な金持ちだったわけではない。若くして才能を認められ、経済的な支援者に恵まれたのである。
上位の10人の検校を十老と称した。十老入りした検校は、京都の職屋敷で当道の執務にあたった。 明暦3年の文書では98人の検校がいたことは先に見たとおりである。江戸時代を通じて常時100人くらいの(時にはそれよりかなり多くの)検校がいただろう。 昇進したての新参者の検校は序列が100番目くらいだが、だいたい30年ほど経過すると古いほうから10番目くらいになる。 そして、さらに10年か20年、一つずつ順位が上がり、三老、二老を経て、最後は序列第1位の一老、つまり総検校ということになる。 おそろしく気の長い話なのである。
昇進の順序がすべての当道の世界では、若くして検校になり、長寿を保った者だけが、上位の検校になることができた。 会沢検校は長命ではあったが、いかんせん、デビューが遅すぎたわけだ。
八橋検校は貞享2年(1685)に72歳で亡くなった。47年間も検校であり続けてもなお、最終的な序列は第6位、六老であった。
ほんとうに気の長い話である。
勾当 ← もどる
すすむ → 七十三刻(まとめ)