前のページでは、「1−1−1.衆分」、「1−1−2.一度の上衆引」などと、座頭のランクを並べておいたが、入門したての者はまだ座頭とは呼ばれない。
座頭の前に、
[0] | 0−0. | 初心 | |
[1] | 0−1. | 半打掛 | 4両 |
[2] | 0−2. | 丸打掛 | 3両2分 |
[3] | 0−3. | 過銭(化遷)打掛 | 2分 |
がある。ここでは、73刻全体の中での通算の刻目数を[1][2][3]と表示した。
初心はまったくの無官である。[0]としたが、73刻の内には含まれない。
元禄5年(1694)に当時の総検校杉山和一が制定した『当道新式目』では、「取立弟子十四歳迄其者の親次第、十五歳より其身の心次第たるべき事」* と規定されている。 それ以前の規定では、10歳までは親次第、11歳からは本人の意思で、ということになっていたのを改めたものである。 人により失明の原因もその発生年齢もさまざまであろうが、先天的あるいは幼少時の失明者は、概ねこのくらいの年齢までに入門していたのであろう。
* 『当道新式目』,『日本庶民生活史料集成』第17巻,三一書房,1972.p243
師匠のもとに入門した者は、そこで当道の表芸である平家琵琶を習う。 江戸時代に入ると、当道は、琵琶ばかりでなく、三絃、箏、按摩、鍼治なども、自らの芸の内に加えていくことになる。
しかし、当道は単なる職業教育機関にとどまらない。 入門したばかりの少年にとっては、この世界がすべてである。人としてのたしなみや振る舞いを学ぶ、一種の全人格教育の場であっただろう。 とりわけ、当道のしきたりなどを知り、それになじんでいくことは、この世界に生きる者にとってはきわめて重要なことであった。
当道の規定では、弟子は生涯にわたって師匠を変えることはできなかった。 師匠は「取立師匠」「名付師匠」「坊主(ぼうしゅ)」などと呼ばれるが、この師弟の関係は一生続く。「○○の弟子」という肩書は、師匠の歿後もついて回るわけである。 ただし、技芸を習得するには、ほかの師匠について学ぶことも許されていた。
師匠と弟子の関係について、相撲の親方と力士のようなイメージでとらえると、実態に合わないところがある。 相撲の師匠(親方)は現役を引退して弟子養成に専念しているが、当道の師匠は自らも現役の琵琶法師や鍼按家なのである。 非常に優秀な弟子の場合、師匠が勾当であるのに弟子が検校になるというように、師匠の地位を追い越すこともあり得る。 そのようなことになっても、師匠は弟子からは「お坊主」と呼ばれ、敬意をもって遇されたのである。
半打掛になると、「○一」「城○」といった都名(いちな)を名乗る。初心の段階では、まだ都名を名乗ることはできず、別の名が与えられる。
半打掛に昇進するのには、4両の官金を納めることが必要となる。同様に、丸打掛になるには3両2分、過銭打掛になるには2分を要した。 ありていな言い方をすれば、カネで地位を買うのである。 しかしながら、師匠や兄弟子について回って揉み療治をしながら日銭を稼ぐような生活の中では、4両という貯えを自分でつくることは容易ではない。 おそらく、半打掛を「買う」には、実家からの仕送りや師匠の援助が必要であっただろう。 師匠にも弟子を昇進させてやりたい気持ちがあるが、自分の弟子たちの中でだれを昇進させるかは、言いかえれば、どの弟子に投資するかということでもあった。
そんなわけで、長い間、初心にとどまっている者、あるいは一度半打掛になったきりで、その後は昇進できないままでいる者も、相当いたと考えられる。
都名(いちな)
「都名」と書いて「いちな」と読む。当道に属する盲人は、盲人としての名前である都名を名乗った。
有名な検校の名には、「杉山和一」とか「塙保己一」とかというように、「一」が付くものが多い。この「○一」というのが都名である。 一種の諱(いみな)なのであって、周囲の人が敬意を表して呼びかけるときには用いない。「杉山検校」「塙検校」というのである。
『六段』などで有名な箏曲の八橋検校は、都名を城談という。 生田流の祖、生田検校は「いく一(幾一)」、山田流の山田検校は「とよ一(斗養一)」という。 ただし、これらの名を耳にすることは少ない。邦楽界の人々が、大先輩、大師匠にあたる人たちを「城談」「いく一」「とよ一」などと呼んだらたいへん失礼にあたるからであろう。
杉山和一、生田いく一、塙保己一、山田とよ一には「一」の字が付いている。八橋検校は城談といい、一の字が付かない。これは、流派の違いによる。
当道の伝承によれば、琵琶法師の系譜は、性仏 → 城正 → 城一 と継承されるが、城一の弟子に、如一と城玄という二人がいて、それぞれが一方流、八坂流の祖となった。 如一の系統の者は「一」の字を受け継いで「○一」を名乗り、城玄の系統の者は「城」の字を受け継いで「城○」を名乗る。 「○一」は一方流の系統であることを示し、「城○」は八坂流の系統であることを示している。
15世紀には、一方流に「妙観」「師堂」「源照」「戸島」の4派が、八坂流に「妙門」「大山」の2派が、それぞれ成立した。 全体として、一方流のほうが人数も多かったから、個々の名乗りも「○一」が「城○」よりも多い。 比率としては「○一」が8割、「城○」が2割といったところであろうか。
当道の基本文献である『当道要集』は、「都名」について、次のように記す。
昔いちの字に都の字を書く事、子細有りと雖も、中興一文字に改めつると申し伝えし事。** 『当道要集』,『日本庶民生活史料集成』第17巻,p232 表記を修正
「○一」という名前を、昔は「○都」と書いていたという。
「中興」というのは、明石覚一のことである。 覚一が属していた「一方流」は、京都堀川六条付近の「東の市」のあたりを拠点に活動していて、東山の八坂を拠点としていた「八坂流」=「八坂方」に対して、「市方」と呼ばれていた。 「都」は「市」と同義で、繁華な場所を意味している。
それが明石覚一のときに「一」の字に改められたということであるが、覚一以後においても「○一」と並んで「○都」という表記も見られないわけではない。 また、当道内部の資料では用いられてはいないようであるが、「市」の字も、『壷阪霊験記』の「お里沢市」や映画の「座頭市」でおなじみである。 一応のところ、「一」が正式であるが、「都」や「市」も混用されていたといえる。 いずれにしても、読み方は同じである。
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