3 塙保己一 不器用
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のちに塙保己一となる辰之助は15歳で江戸に出て雨富検校に入門した。不器用で、三絃も鍼治も身につかなかったという。
不器用とは? ということを考えてみる必要もあるかもしれない。
少なくとも、あるレベルに到達することを期待され、結果的にそこまでは到達できなかったということになるが、それはどんなレベルだったのか?
3-2
期待されるレベルとは、(1) (2) どちら?
(1) 多くの人が到達し、残りの少数の人は到達できなかった。(塙保己一は不器用だから少数派)
(2) 少数の人のみが到達し、多くの人は到達できなかった。(塙保己一は不器用だから多数派)
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人によって、期待されるレベルが異なるということもあったようにも想像される。
地域医療に従事する鍼按家として自分が生活できればそれでよしという人と、地域の盲界のリーダーと目される人では、期待されるレベルは異なるだろう。
3-4
三絃も鍼も上達しない千弥(のちの塙保己一)に師匠の雨富検校が言う。
雨富余りに覚えて、せめいひけるは、凡そ人の郷里をさりて他邦〔郷ヵ〕に赴くことは、なす事あらんとての意なり、汝 父母の家をいでてここに来るもしかなるべし、されども産業となすべきこと、一つも習ひ得るものなし、且つ朝夕汝がなすところ、露ばかりも我が心にかなはず、さはあれど、門人の禄(ナリハヒ)となる術ををしふるは師の職分なり、汝が好まざることをなせといふにあらず、賊と博とを除きてほかは、何にまれ心にかなひたらんものをつとむべし、これよりして三とせが間汝を養ふべし、三とせをへてなすことなくば速に郷里に送りやるべしといふ。 ――『温故堂塙先生伝』 |
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これの直前の箇所で、千弥の技量についての記述がある。
三絃については「今日ならひ得しものは一夜が程にわすれて、明日はしらずなりけり。」、「一曲をも全くは覚え得ざるのみか、調子さへ合はざりければ、」、鍼は「術にかくれば人よりは遥かに劣れり。」というありさまであった。
そして、「こは文読むかたにひかるればなるべし。」と、学問への思いが強く、技能の習得に気持ちが前向きになれなかった理由らしきことが述べられている。
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近現代的な価値観と人の心情の中に生きるわれわれはこの記述に惑わされてしまうかもしれない。
三絃や鍼術の修業に真摯に向き合えないのは師匠にとっては容認しがたいことではあるが、それでは真面目な態度で一生懸命やってさえいればよかったのか、というとそんなことはないのだろう。
雨富が千弥に求めたのは修業に向かう姿勢ではなく、結果に違いないのだから。
結果として、千弥は18歳で衆分となり、師匠の期待に応えることになる。
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雨富検校の言う「我が心」が千弥を自分の後継者にすることであったのは明白だ。
実際には、千弥が音曲・鍼治に向いていないことは師匠も前々からわかっていたに違いない。音曲や鍼治ではなく、学問がやりたいと思っていたことさえも気づいていたかもしれない。
千弥の願いをもっと早く許すべきだったのだが、千弥を後継者にするという望みはなかなか捨てられなかったのだ。
しかし、雨富検校も考えを改め、「さはあれど、門人の禄(ナリハヒ)となる術ををしふるは師の職分なり」として、千弥に音曲・鍼治以外の道に進むことを許す。千弥の入門から1年ほどのちのことであっただろうか。