瞽女縁起
瞽女の縁起 倩以るに、人王六十代* 、嵯峨天皇第四の宮女官にて、相模の姫宮、ごぜ一派の元祖となり給ふ。忝も賀茂明神、末世の盲人を、不便に思召、忝くも御事の腹に宿らせ給ひ、胎内より御目瞽にて、御誕生ましまし、父大王、母后、神社仏閣の御祈祷、有之と云へども、元来大願成就の種なれば、更に甲斐あらず、相模の姫宮、七歳の御時、夢に紀伊国那智山如意輪観音、夢枕に立せ給ふ、君は末世の、女人盲人のつかさとならせ給ふ、賀茂王家にて渡らせ給ふ、諸芸を本として、世渡りを民間に下り、営之すかせ給ふべき相官を授けん、との仰により、則派と定め* 、みやうくわん派、かしわ派、くにけ、はりま派、をみの派* 、弟子五人是より則、友として諸芸を励べしと、既に御夢覚させ給ひ、父母に語り合へば、有難き仰有とて、則摂家の中、明くわん派、かしわ派、二人の御弟子、一しやうの姫きみ、播磨国府より、国司の御子、下野の城主にせん派と定るもの此事也。近江国の城主、姫君をみの派と申なり、五人の御弟子偈仰の友とし、かな手かた、けい其派ひらけ、十五年を経て中老と号す、官禄是あり、尤初心にて、弟子取事、内にて修行に出ぬ前なれば、苦しからず、但中老より、弟子諸共に、修行に出る事、嵯峨天皇の御定、院宣の仰なり、其徳によらさせ、年を経て一老官と号す、組ごぜの官にいれば* 、賤き家に行ず、武士、百姓、町人、商買によるべし、寺社、修験、是には出入すべし、若法に背輩、是あらば、髪をきり、竹杖を預け、其咎の品により、所追放ち、十里廿里外へ流し、罪是あるべし。 但女儀にて、理立ずんば、其所のとふどふの■を* 得おさむべし。云云。 一 信心の本尊、如意輪観音は、妙音菩薩にて、渡らせ給ふ故によりて、心信の徳、妙音弁財天、下賀茂大明神、常に祈るべき者也、世渡守護の神なれば、疎に心得なば、立所に御罰あるべきものなり。 一 世渡り、武士、所の庄屋、在家に至る事、嵯峨天皇よりの勅定に、日本修行、御恩の徳なり、全且家の恩にあらず、故に謹むべきなり、尊むべきなり、難有御恩、深信心すべき。云云。仍院宣乃巻如件。 ―― 『駿国雑志』巻之七 |
* 六十代 = 嵯峨天皇は52代。 * 則派と定め = 則ち[五]派と定め か? * みやうくわん派、かしわ派、くにけ、はりま派、をみの派 = 瞽女の五派。本史料では、@みやうかん派、Aかしわ派、Bくにけ、Cはりま派、Dをみの派。「杉本キクイ家文書」の「式目」では、@ミヤツン[派]、Aカシワ派、Bクニハリマ派、Cゴセン派、Dヲミノ派。 * 組ごぜの官にいれば = 但しごぜの官にいれば か? * とふどふの■を = くちへん+秀。「杉本キクイ家文書」の「式目」では「サハキ」。「当道の裁き」か? |
国立国会図書館デジタルコレクション 駿国雑志 巻之七 コマ番号 133/175
本史料は、中山太郎;『日本盲人史』,(1934).八木書店(1976). p427 以下にも引用・言及されている。
杉本キクイ家文書 No.1 「式目」も参照。
上越市総合博物館 編集・発行;「企画展 高田瞽女最後の親方 杉本キクイ」,(2013). p81.