仲都 初めの名は了三、中ごろ今都と改め、終に仲都と称す。某国江戸街に住む。父を関左衛門と曰ふ。農を以て業となす。二子あり。兄某出でて東都に在り。弟は即ち仲都なり。両目夙に盲し、赤貧洗ふが如し。三絃を鼓し、以て生を営む。常に歎じて曰く、落魄此の如く、仰いで父母を養ふ能わず。慙愧何ぞ已まん。小人盲なりと雖も、亦男児たり。吾聞く、盲人も検校勾当等の官を得ば、以て士大夫と齒すべし。小人も亦 神に祈り、仏に念ぜば、盲官を得べきなり。烏に反哺の孝あり、鳩に三枝の礼あり。人にして鳥に如かざるべけんやと。更に按摩を業とし、昼夜人の招きに応じ烈風暴雨と雖も止まず。其の獲る所を以て或は酒肉を買ひて膳羞に充て、或は薪菜を購ひて庖厨に具へ、以て父母の心を喜ばしむ。毎旦蚤起手を拍ちて神仏を拝し、師家を訪ひて三絃を習ひ、遂に妙処に詣る。近鄰に招かるることある毎に膳羞の魚肉は自ら之を食せず、齎し帰りて之を父母に遣る。平素出づるには必ず告げ、反れば必ず面し、昏定晨省、寝を問ひ膳を視ること古礼に合はざるはなし。其の治に赴くや、風雪の夜と雖も未だ嘗て外に宿せず。父既に七十、身尚矍鑠。日に事に耕耘に従ふ。仲都之に■し、其の帰るに及び、酒を薦めて慰労す。一日 某貴人の宴に侍す。貴人問ひて曰く、汝未だ盲官を得ず。汝も亦之を欲するかと。仲都対へて曰く、小人昏愚、未だ老親を養ふ能はず。故に未だ盲官に拝するを得ずと。貴人曰く、汝廃疾の身を以て天倫の美を全うす。隻眼のものと雖も或は及ぶ能はず。吾汝の為に盲官を授けんと。乃ち其の言の如くす。名声藉甚。来りて治を請ふもの門に麕集し、生計稍殖す。父年八十、母年七十。仲都之に事ふること益々厚し。時に其の兄江戸より帰り、熱を患ひ、将に死せんとす。仲都側に侍し、看護せしかば、病終に癒ゆ。其の友愛も亦此の如し。宝暦二年六月官其の至性を褒し、若干金を賜ふと云ふ。
―― 『本朝盲人伝』,p70
* 仲都之に■し = ■は「食へん+盍」。「ごう」(かれいい)。 |
文部省普通学務局(石川二三造 編);『本朝盲人伝』,文部省(1919),repr.大空社(1987).