此都(これいち)

 此都は北越魚沼郡小千谷村に住む。按摩を業とす。舅を三四郎と曰ふ。既にして歿して二十余年を経たり。此都 母及び妹妻を養ふ。亦多病にして、家極めて窮乏なり。此都 常に本業を勤めて僅かに生計を立て、一家親睦す。此都 母の為に甘旨を進む。然れども貧にして其の意の如くならず。乃ち泣涕粒を断ちて以て之を悲しむ。其の出入起居自然に礼に合すと云ふ。其の後母及び妹病む。此都湯薬扶助の労を執りて、自ら食するに遑(いとま)あらず。父在りし時は原新田に家し、相距ること二里、山河に阻隔せらる。此都以て意となさず。寒燠を辞せず、行いて安否をす問ふこと毎月両三回に及ぶ。嘗て小谷島を過ぐ。会々遺児あり。呱々として泣く。此都惻然之を憐み、乃ち鞠ひて以て己の子となす。領主松平肥後守 米穀を賜ひて之を賞す。実に延享二年なり。

  ―― 『本朝盲人伝』,p63

 文部省普通学務局(石川二三造 編);『本朝盲人伝』,文部省(1919),repr.大空社(1987).

 国立国会図書館デジタルコレクション 孝義録 [28] (越後 上)


孝養の盲人

近世当道