慶玉(けいぎょく)

 慶玉は出羽国田川郡早田村の人なり。父を茂助と曰ふ。家甚だ貧なるに、父老いて病に寝ぬ。慶玉常に湯薬に侍す。父性酒を好む。慶玉貰進怠らず。父又鮮魚を嗜めども、越後国寐屋(府屋)村に至らずば之を得難し。慶玉日に行くこと三里許。之を求めて其の膳に供す。母齢六十を過ぎて亦善く病む。慶玉之に事ふること猶父に事ふるがごとし。其の外に出でて雇賃を得れば、必ず甘旨に代へて之を進む。冬は自ら雪薦を編む。〔雪薦は縄を以て之を製す。蓋し寒国雪を禦ぐの具。〕又常に薪水を執りて肯て母を煩さず。一日村長慶玉に謂つて曰く、汝鶴岡に赴いて盲人の業を習はんと欲せば、吾汝の為に良師を択ぶべし。且盲者は官位を得るを以て栄となす。汝も亦之を欲するかと。慶玉深く謝し、且辞して曰く、夫れ芸は身を助くる所以。然れども小人老母あり。今若し他邦に赴かば誰か之を養はん。且老母若し不幸にして世に即かば、之を悔ゆとも豈及ばんや。小人他の願なし。惟他日一梵鐘を鋳て之を招提に奉じ、其の冥福を祈らんと欲するのみと。其の師城音も亦村中に住む。慶玉終始能く之に事ふ。元文五年領主之を嘉して米を賜ふと云ふ。

  ―― 『本朝盲人伝』,p60

 文部省普通学務局(石川二三造 編);『本朝盲人伝』,文部省(1919),repr.大空社(1987).

 国立国会図書館デジタルコレクション  孝義録 [25] (出羽)


    慶玉の年譜
 正徳2年(1712)  庄内早田村に生まる。
 享保14年(1729)  年十八にして明を失ふ。
 元文5年(1740)  米三拾俵の賞を賜ふ 時に年廿九なり。
 寛保元年(1741)  菩提寺大龍寺に半鐘を納む 但し年代に異説あり。
 天明5年(1785)11月28日 慶玉歿 年七十四なり。
   
 寛政年中  尾張の儒士紀徳民 小語を著はし慶玉が孝を述ぶ。
 寛政12年(1800)  官刻孝義録にかかげらる。 (歿後16年)
 天保4年(1833)  慶玉の肖像と略伝を印刷し千枚を配布す。 (同 49年)
 天保10年(1839)9月6日 湯温海長徳寺門前の慶玉碑開眼式を行ふ。 (同 55年)
 天保11年(1840)  余目の人佐藤義治 最上川の埋木にて木像を作り長徳寺に納む。 (同 56年)
 天保13年(1842)  孝碑建設者相諮り早田村与左衛門の二男を撰び家を建て漁船を造り与へて慶玉の跡を継がしむ。 (同 58年)
 天保14年5月(1843)  慶玉其の他の孝子子孫系図取り調べあり。 (同 62年)
 弘化3年(1846)  池田玄齋参考碑の著あり 慶玉の伝尤も詳らかなり。 (同 62年)
 明治26年(1893)2月 大龍寺の火災にて慶玉の納めたる半鐘を失ふ。 (同 109年)
 明治36年(1903)  念珠関教育会にて孝子慶玉事蹟を発行。 (同 119年)
 明治38年(1905)  早田の慶玉生家の傍に孝子慶玉の碑を建つ。 (同 121年)
 大正3年(1914)春 早田にて慶玉の百三十年祭を行ふ。 (同 130年)
 大正8年(1919)  西遊佐村青山米吉 慶玉の伝を十枚の絵にかき一幅とし 又同じく額面に仕立てて長徳寺に納む。 (同 136年)
 大正12年(1923)  鉄道工事にて慶玉の墓は線路に当たるを以て大龍寺の傍に改葬し、三月廿八日盛なる祭を行ふ。 (同 139年)
 大正12年(1923)  慶玉の墳墓を山形県史蹟として保存する事となれり。 (同)

  ―― 清野鐵臣 編;『孝子慶玉研究資料』,(1928).pp39〜41 より。

 コトバンク 慶玉

 荘内日報社 郷土の先人・先覚119《孝子 慶玉》


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