城定 幼名は留主太。陸奥国塩屋郡和泉田村の長彦右衛門の子なり。年甫めて十二 明を失ふ。十六に及び、父罪ありて刑辟に当る。留主太頼るべきの親戚なし。乃ち疎族を大沼郡小野川村に訪ひ、母と■居し、僅かに生計を営む。常に父の非命を痛み、其の刑地に詣り、竊に発掘して担ひ帰り、墳墓に封じて冥福を祈る。観るもの之を感嘆せざるはなし。 初め父の世に在るや、近鄰の農に長作なるもの女あり、両家の父母共に議し、予め許嫁を許す。後 女の年十三に及び、其の親族咸(みな)曰く、彼の児は盲となり、彼の父は刑せらる。改め嫁するに如かざるなりと。女聞いて肯ぜずして曰く、昔は郎の父は村長たり、妾の父は細民たり。貧富均しからず。而して父母婚を約す。妾 心竊に良偶を得たるを喜ぶ。今其の父子の不幸に罹れるを視て、初心に負くべけんやと。 長作已むを得ず、其の踪跡を尋ね、媒氏をして婚儀を約せしむ。留主太母子辞して曰く、少女能く亡父の約を履んで初心に負かず。■綣の情、洵に謝すべし。然れども吾不幸にして盲となり、家も亦甚だ貧し。豈善く妻を養ふを得んや。別に良縁を択んで父母を累はすなきに如かずと。媒氏帰りて佯(いつわ)り告ぐるに其の踪跡を知らざるを以てす。女曰く、妾の身は終に他人に許すに忍びず、徐ろに以て之を待たんのみ。父母若し聴かずば、妾は深淵に投じて死せんと。 長作 益々其の奪ふべからざるを知り、又媒氏をして其の母に請はしむ。其の母乃ち之を納れ、留主太をして之を娶らしむ。婦能く姑に事へ、或は薪を山に採り、或は芹を水に采り、日に販鬻を事として以て之に衣食せしむ。留主太も亦之を嘉みし、伉儷甚だ厚し。 留主太 名を改めて城定と曰ふ。母老病を以て世を終へしかば、夫妻哀毀已まず。日に其の墓に詣りて哭泣す。観るもの益々其の至性に感ず。 其の後城定江戸に赴いて鍼術を習ひしに、幾ばくをなくして中風に罹り、復 郷に帰る。城定に四子あり。長を伝吉と曰ひ、次を佐次兵衛と曰ひ、次を勘次郎と曰ひ、次を金四郎と曰ふ。皆能く孝友にして、佐次兵衛之が最たり。常に農業に勤め、暇あれば薪を山中に採り、以て市に鬻ぐ。其の往来に険路あり。博士峠と曰ふ。佐次兵衛以て意となさず。獲る所あれば、携へ帰りて親に薦むること、終始一日の如しと云ふ。 宝永五年領主松平肥後守 米を三人に賜うて、之を賞せり。 ―― 『本朝盲人伝』,p45 |
* 母と■居し = ■は「にんべん+就」。「しゅうきょ」(間借りして生活する)。 * ■綣の情 = ■は「糸へん+遣」。「けんけん」(情の厚いこと)。 |
文部省普通学務局(石川二三造 編);『本朝盲人伝』,文部省(1919),repr.大空社(1987).
国立国会図書館デジタルコレクション 孝義録 [14] (陸奥 三)