三代関・表控・座下控

 検校の任官に関する資料。『三代関』・『表控』・『座下控』及び奥村家文書『上衆成立』。

(1)『三代関』

 慶長8年(1603)10月17日権成の小田切りよ一から安永6年(1777)2月8日権成の小島しゆん一までの843人の検校の任官記録。 この人数には帰座によって同一人が反復して記載されたものを含む。

 基本的な記載事項は、
  @所属流派
  A検校名
  B坊主・祖父坊主
  C権成の年月日
  Dその他の特記事項(職検校の経験や不座処分など)
である。これらは『表控』・『座下控』においてもほぼ踏襲されている。

 国立国会図書館本(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2608818)と東北大学本(『国語国文学研究史大成9 平家物語』所収)がある。 実際の書写年代は別にして、表記や内容の面からは国会図書館本のほうが、より原資料に近い特徴を保っていると考えられる。

 東北大学本の解題には、以下のように「京都江戸在住の検校受官者に限定されているようだ」とあるが、実際には全国の検校をほぼ網羅していると考えられる。 次に掲げる『表控』に重複記載された検校の記録から、京都や江戸以外の検校も少なからず含まれていることが知られる。

 三代関 ―― 編者未詳。題名は「さんだいのせき」と読むべきか。「関」は「籍」の意であろう。 新たに検校となった者の所属流派名、登録年月日、ならびに坊主(師匠のこと)・祖父(師匠の師匠)の氏名を掲げ、三代にわたる師弟関係を明らかにした記録書。 序によれば、慶長八年十月から明和八年八月までとあるが、実際にはさらに継書して安永六年二月までを記す。職・惣録の経歴、不座・訴訟事件等の付記もある。 本書により江戸時代では前田流に勢力があったこと、享保年間不座処分が多かったこと、八坂流は安永年間もなお命脈を保っていたことなどがわかる。 この記録は京都江戸在住の検校受官者に限定されているようだが、なお研究を要する。
 ――『国語国文学研究史大成9 平家物語』,p.231

(2)『表控』

 元禄13年(1700)正月元日権成の若松東一から文化2年(1804)3月12日権成の山川城綾までの506人の検校の任官記録。安永6年までは『三代関』と年代が重なり、393人が『三代関』との重複記載である。『三代関』との重複記載は、早い時代においては疎であるが、時代が下るにつれてその割合が増加し、享保の末年以後はほぼ網羅されるようになる。

 基本的な記載事項は、
  @権成の年月日
  A所属流派
  B検校名
が主で、前半部の検校の多くは、C坊主・祖父坊主 の記載を欠く。必要に応じて、Dその他 の特記事項も付記されるが、『三代関』の記載事項に加えて、任官地や同宿の関係などが記されていることもある。

 国立国会図書館本(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538556)がある。

(3)『座下控』

 文化2年(1804)11月6日権成の浅本徳之一から慶応3年(1867)9月21日権成の柳沢三芳野一までの463人の検校の任官記録。 したがって、文化2年の『表控』末尾と『座下控』冒頭の間に半年あまりの空白がある。

 国会図書館本(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538550)がある。 筆跡や形式上の差異により、数次にわたって書き継がれて成立したことがわかる。

(4)奥村家蔵『上衆成立』

 文政4年(1821)3月7日権成の生島浅重一から明治3年(1870)4月3日権成の辻本直栄一までの195人の検校の任官等の記録。 慶応3年(1867)10月15日権成の姫野豊松一以後の17人を除く178人は『座下控』と重複する。 『座下控』との重複記載については、天保ころまでは疎であるが、時代が下るにつれてその割合が増加し、嘉永・安政年間以後はほぼ網羅されるようになる。 権成の年月日だけでなく、座入以後の昇進の経過や権成後の死亡・引退などについても記されている。

 渥美かをる・前田美稲子・生方貴重編著『奥村家蔵 当道座・平家琵琶資料』所収。 同書405ページの解題には「波多野流の二代目岸部検校の弟子あたりからの琵琶法師の師弟関係と記録を記したもの。 藤村検校門人あたりまでの人が記されているので、波多野流(又は京都)の平曲関係者のリストとなるもの。」とあるが、 実際には「波多野流」でも「京都」でもなく、この期間に任官した全国の検校を対象としていると考えられる。

三代関表控座下控上衆成立
慶長8年(1603)〜元禄12年(1699)○三代関
元禄13年(1700)〜安永6年(1777)△表控
安永6年(1777)〜文化2年(1805)3月○表控
文化2年(1805)11月〜文政4年(1821)○座下控
文政4年(1821)〜慶応3年(1867)△上衆成立
慶応3年(1867)〜明治3年(1870)○上衆成立
ほぼ網羅
一部の検校を記載

 これらの資料は「坊主 ― 弟子」の系統関係を示しているものであって、平曲、三曲、鍼治などの技芸の伝承とは必ずしも一致しない。


座中の人々 T

近世当道