『三部書』序に書かれた杉山和一伝

 三部書序に書かれた杉山和一伝

 〔  〕は文中の漢字の語の左側に付けられた意訓的なルビ。《  》は割注。
 原文に句読点はないが、読みやすさの便のため適宜句点を付した。

延宝の際 杉山和一と云ふものあり。 卓絶奇偉〔すぐれたる〕の人なり《勢州津の藩士 父を杉山権右衛門と云》。 幼にして江戸に来たり 鍼科を山瀬琢一に学ぶ。 琢一は其術を京師の入江良明に学ぶ。 良明は其父 頼明に受けたり。 頼明は豊臣秀吉の医官 岡田道保に受く。
其の初め和一 性〔むまれつき〕甚だ魯鈍〔にぶく〕 其の師 琢一経絡挨穴を指示提誨するも記臆するあたはず。 琢一怒りて之を逐ふ。
是に於て和一 激昂憤氏kふんぱつ〕し 江ノ島に抵り 天女祠に祈り 飲食を断ずること七日 誓って曰く 「我をして名を世に発せしめば 神の賜ものなり。若し術成らざれば 請ふ 速やかに命を絶てよ」 期に及んで困頓〔つかれ〕して 已に死せんとす。 時に恍然〔うつつ〕として 管と鍼とを授るものの如し。
是より精思刻苦し 大に覚悟〔はつめい〕する所あり。 遂に名を天下に播揚するを得たり。 徳川厳有公 聞て大城に召す。 嗣で常憲公の病に侍す。 功効〔しるし〕あり。 一日 公 欲する所を問ふ。 対へて曰く「臣 世に於て希倖〔ねがひ〕する所なし。只 願はくは一目を欲するのみ」 公 聞きて 之を憐み 本所一ツ目を賜ひ 禄五百石を給す。 後 増して三百石を賜ふ。 特命を以て関東総検校となる。 肄館〔けいこば〕を建て 鍼治講習所と云ふ。 諸方より門人来たり聚り 別に一派を開く。 世に之を杉山流と云ふ。
著述三部あり。 一を大概集と曰ふ《鍼の刺術病論を説く》。 二を三要集と曰ふ《鍼の補瀉十四経の理》。 三を節要集と曰ふ《先天後天脈論》。 是の書畢生の精力を以て 鍼法の秘蘊〔ひみつ〕を発揮〔はつめい〕す。 之を筐中〔はこのなか〕に秘す。

 「三部書序」,『療治之大概集』(明治13年), 『杉山和一生誕四〇〇年記念 療治之大概集 上中下』(平成21年復刻)

琵琶・音曲・鍼按

近世当道