三味線のおこり  『色道大鏡』

 『色道大鏡』巻第七

 色道大鏡巻第七
   翫器部
三味線 三線とも云、夫 琴は大なれども、三味線は当道翫器の第一なれば、此部の巻頭におく。
三味線のおこりは、永禄年中 琉球国より是を渡す。その時は蛇皮にてはりて三絃なる物也。泉州堺の琵琶法師中小路といひける盲目に、人のとらせたりけるを、此盲目よろこびてしらべつゝこゝろみたりけれど、教をきかざれば音律かなはず。是を心うくおぼえて、長谷の観世音へ詣で、一七日参籠し引やうを祈りしに、あらたなる霊夢ありて、階をくだる時に、大中小の糸三筋 盲目が足にかゝる。是をとり、三筋の糸をかけてひくに、無尽の色 音出たり。それより三絃にきはむる故に、三味線としかいふ。其砌は、むざと引きてなぐさみとせしに、暫して、虎澤といひし盲目 是を引かため、本手・破手といふ事を定めて、人にこれをつたふ。
其後 澤住といふ盲目ありて 是をひきおぼえ、歌に載て引出したり。それより公家・武家の内にも、賞翫せさせ給ふかたおほくありて、みづからもひかせたまふ。其時は、此器に緒をつけて、頸にかけて引を用とす。
其後平家の俤にして、浄瑠璃といふものはじまりて、かたり出たりしかば、平家にのせて琵琶をひくごとくに、浄瑠璃にのせて三味線を引はじめたるは、澤住がなすところ也。
而后寛永のはじめ、摂州大坂に加賀都・城秀といふ座頭、両人世に出て、三味線を引出すに、此堪能なる事、古今に独歩せり。東武にわたりて、大家・高門の翫者となり、既に盲目の極官に昇進す。加賀都は柳川検校、城秀は八橋検校となれり。今にいたり、三味線において、柳川流・八橋流といふは是也。
其後、出世したる検校・勾当の内にこの両検をあざむくほどの名人あまたあれども、柳川・八橋両検は、三味線の嚢祖たり。これに依て、今世三味線の工人に、八橋豊前・柳川吉兵衛などいふも、此名字をゆるされたる者なり。
抑傾国の芸において、三味線にうへこす物なし。傾城の是にうときは、官家の人の和歌を 詠ぜず、武士の弓ひくすべしらぬにひとしければ、尤修練すべき道なり。六条にしては小村家の幾島、越前、三味線に堪能なり。坤郭に移りて鳳子小藤、尊子八千代、是三味線の棟梁たり。転子藻塩これに亜げり。所謂 八千代が 楊枝引、小藤が下調ひゞき、風流を招きて恋慕を催す事、古今たぐひなかりき。俗語ながら、誠に恋の寄太鼓とはむべいひけらし。遊客の心をうごかす事、三味線にしく物なし。かすかなる端女とても、是に堪なる者は諸客に呼出され、太夫職の座席にいたる。尤当道において、遊興の奇器なる物をや。

 ――『色道大鏡』巻第七

 国立国会図書館デジタルコレクション 「色道大鏡」巻七 国書刊行会 編;続燕石十種 第2(国書刊行会刊行書)明治42

琵琶・音曲・鍼按

近世当道