当道雑記 8
8 八橋検校の身内の人々
8-1
釣谷真弓『八橋検校 十三の謎』には八橋検校の親族に関してかなり詳しく述べている箇所がある。
八橋検校の墓石に刻まれた戒名は「鏡覚院円応順心居士」。
その右に「直至院光誉妙法信女」、左に「釈 妙浄信女」。
京都黒谷にある八橋検校の菩提寺、常光院の過去帳には、次のようにある。
鏡覚院円応順心居士 貞享2年6月12日 検校事
直至院光誉妙法信女 慶安4年8月8日 右室
鏡覚院が八橋検校、直至院がその妻ということになるが、慶安4年(1651)歿はずいぶん早い。
釣谷氏の推定 ―― 直至院は検校の母であり、墓石にあるもう一つの戒名「釈 妙浄信女」が妻である、と。
8-2
『八橋検校 十三の謎』の91ページ、八橋検校の菩提寺である常光院の過去帳の写真が出ている。
最初に鏡覚院(八橋検校)と直至院(検校の室)の名が記され、続いて八橋検校の子と孫らしき人物が記される。
1 鏡覚院円応順心居士 貞享2年6月12日 検校事
2 直至院光誉妙法信女 慶安4年8月8日 右室
3 利照院孤幽玄益信士 元禄2年8月19日 玄益事
4 法室受忍信女 宝永2年10月19日 右ノ室
5 利岸詮益居士 延宝4年8月3日 詮益事
6 法月智栄信女 宝暦4年9月11日 右室
7 浄閑院清誉任教道全居士 享保2年12月21日 早崎検校事
8 信教院一法貞心禅定尼 寛保3年12月21日 詮益ノ母 玄益ノ室
「6 法月智栄信女」と「8 信教院一法貞心禅定尼」の間に、なぜか「早崎検校」とある。
早崎検校とは?
8-3
常光院過去帳の続き。
9 寂照院眼誉法願居士 享保9年7月27日 笹本検校
10 慧祥院禅岳貞安比丘尼 享保8年7月21日 太田検校ノ室
11 光誉妙寿信女 貞享3年9月28日 山田検校ノ室
12 光月涼秋信女 宝暦6年8月28日 八橋庄兵ヱ(?)
13 本照院真誉達眼居士 享保9年12月2日 伴能検校
14 本■院性誉理貞信女 享保12年1月24日 右室ノ母(伴能検校の妻の母)
〔15〜17 上段〕
15 香春童女 貞享2年2月4日 玄益ノ子
16 珠影童女 享保2年4月9日 詮益ノ娘
17 珠峯童子 貞享4年3月2日 玄益ノ子
〔18〜20 下段〕
18 了心童女 元禄5年3月7日 早崎ノ子
19 妙浄信女 寛文10年4月10日 玄益ノ子
20 智証童女 宝永6年5月24日 早崎ノ娘
21 香運妙慶信尼 正徳2年4月15日 八橋貞心事
22 慧勝院感■光雲大姉 享保■年8月14日 笹本ノ前妻(?)
(■は判読困難)
笹本検校は笹本城くわ(宝永7年5月17日権成)。笹本の坊主は根尾検校、八橋の孫弟子にあたる。「室」が記される太田検校は太田城じゆん(寛文2年正月元日権成)で、八橋の直弟子。ここに名が記されるのは不可解なことではない。
それに対して、八橋の一門ではないはずの早崎そよ一(妙観派・正徳3年正月元日権成)とその師匠・伴能ちを一(妙観派・元禄3年9月2日権成)の名がここにある理由は?
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