当道雑記 7


7 盲界の将棋

7-1
 石田検校城たんは正保2年(1645)の権成、延宝年間までは存命。
 その後の盲人棋士としては、岩村検校城とよ(元禄)、石本検校宗幸一(文政)らが有名。そのほか、棋士として名が伝わっている勾当・座頭もいる。当道座内に盲人棋士集団があったことは間違いない。

7-2
 当道座内に盲人棋士集団があっただろうという推定。これは、座内で盲人から盲人への将棋の指導が行われて継承されていたのだろうということを推定している。

7-3
 最初に、ある晴眼者が盲人に将棋を教えた。
 晴眼者から将棋を教わった最初の盲人が石田検校だったのか、あるいはもっと前の出来事だったのかはわからない。
 その後は座内で盲人が盲人に将棋を教えた。

7-4
 盲界では、将棋は単なる趣味や娯楽として消費されていただけではないのだろう。強い人はそれをメシの種として利用することを考えたに違いない。

7-5
 将棋が強い盲人は、単に「すごい」のではなく、「見えないのにすごい!」という付加価値がつく。

 「すごい!」という驚嘆の背後には、見えない人を劣った存在とみなす蔑みの目線があることです。「すごい」は単なる「すごい」ではなくて、実は「見えないのにすごい」ということなのです。
 ―― 伊藤亜紗;『目の見えない人は世界をどう見ているのか』,光文社新書8(2015).p85

 「見えないのにすごい!」を上手に利用して生きてきた人もいただろう。そうやって生きていかざるを得なかった人もいただろう。

7-6
 前近代の視覚障害者にはずいぶんしたたかでたくましい一面があるのだけれど、それは近現代の感覚とは隔たりもある。
 個の尊厳や人権の普遍性の理念を知っている現代人にしてみれば、前近代の視覚障害者の生きざまはしばしば奇異に感じられることもある。


当道雑記

近世当道