当道雑記 12


12 沢市

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 沢市 ――

 生没年未詳。一説には寛文ごろの人。大和国高取郷土佐町の盲人。病気で失明し、按摩導引を生業としていたが、壷阪寺観音に参詣して、その利益により開眼したという。妻・お里との夫婦愛の物語は、後年、浄瑠璃や歌舞伎の「壷阪霊験記」に脚色され名高い。

 まずは、この沢市という人物について、よく知られている浪曲「壷阪霊験記」を手がかりとして、その人物像を探ってみる。

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 一般にもっともよく知られた「お里沢市」の物語は、以下のようなものである。

 (1)浪曲「壷阪霊験記」の沢市

 冒頭は、有名な次の文句で始まる。

 さあ来やしゃんせ、こちの人と、妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつゝ、 頃は六月中の頃、夏とは言えど片田舎、木立の森もいと涼し、 小田の早苗も青々と、蛙の鳴く声、此処、かしこ、聞くも涙の夫婦連れ、……

  ―― CD:「日本の伝統芸能シリーズ 浪曲[22] 浪花亭綾太郎」,テイチク(1995).

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 妻・お里とともに壷阪寺に向かう途中の山道で、沢市は腹痛を訴える。

沢市が、水落ちを押さえると
「あゝ痛たた、ウーム」
「沢市さん、どこが痛うござんす。心、確かに持たしゃんせ、里でござんすこちの人」
背な擦すられて顔を上げ、
「一日も早う此の眼が開けて頂きたいばっかりに、歩み慣れない山道を、急にいそいで登ったせいか、 下腹から水落ちへきつう差し込んでなりませんのじゃ …(中略)…  えらい無理を言うて済まぬが、これから一ト走り家に戻り、 お仏壇の真ン中の引き出しに入れてあるわしの合薬を、ちょっと取って来ては、くれぬかや?」

 お里は、沢市に次のことばを残して家に戻る。

「そんならこれから一ト走り急いで、いんでこう程に、この岩に腰をかけて、里が戻る迄必ず動いて下しゃんすなゃ、 お目の見える時、よう見てご存じでもござんしょうがこのお山はな、松も柏も生い茂り、それはそれは険しい山道 …(中略)…  足辷らせて落ちたなら、それこそ命が無い程に、夢にも動いてはなりませぬぞえ」

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 しかし、この日の沢市は、すでに自らの人生に終止符を打つことを決意していたのだった。

「わしのような、不自由者が、いつ迄も永らえて居りましたら、 世間の人様からお里は、器量よしじゃ、別嬪じゃと褒めて、頂けるそなたが、後ろ指をさされ、陰口言われて、此の世を送らねばなりませぬ、 それが不憫ゆえ、死んで行きます。 沢市が冥土へ行ったその後は、唯一心に観音様へ、お願い申し、有難い御利益を頂いて、心優しいお人の許しへかしずき、楽しいこの世を送って下され …(中略)…  壷阪寺に祀らせ給う大慈、大悲の観音様、癒りもしませぬ眼病を、どうぞお癒し下されと女房里が、無理なお願を、かけました、ご免なされて下さりませ、 なんぼ貴方様の御利益、あらたかにましますとも、一旦潰れたこの眼は、必ず開きは致しません、 逃れようとて逃れられませぬは、仏法で申す、因縁ごとでござります」 …(中略)…

まといし羽織りを、そっと脱ぎ、手さぐり乍ら、袖だたみ、ふんわりおいた岩の上、 後かけ草履の紐をとき、裸足になると杖に通して、岩へ立てかけ、 背まぐらに打って流れ行く水音便りに谷の渕、谺に響く観音経、身を躍らせて谷底へ……

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 いったん家に戻ったお里は、夫のいる壷阪山中へと引き返すが、沢市の姿はどこにも見あたらない。

「ここで別れていつの世に、会えようものぞ、会わせてたべ、大慈大悲の観音様、もし沢市つぁん、こちの人、沢市つぁんへの…」

声を限りに 呼び立つれど
訪ずるものは 更になく
かたえを見れば 沢市が
家を出る時 まとうて出でし かこみの羽織
袖だたみにして 岩の上
杖に草履を 通して岩へ 立てかけある
見るよりお里は 玉の緒の
切れんばかりに 仰天なし
「ええ、恨みますぞえ 沢市つぁん
 癪でもないのに 嘘言うて
 私を家に 戻しておき
 お目の開かぬを 苦になされ
 谷へ入って 死なしゃんしたか
 死ぬなら死ぬと この里に
 なぜ仰っては 下さんせぬ
 目の見えないのに 一人で死んで
 弥陀の浄土に 行く道は
 だれを頼りに 行かしゃんす
 沢市つぁん 男の心は 薄情な
 女ごの心は そうじゃない
 貴方一人は やりはせん」と
今飛び込まんとする……

 お里が身を投げようとしたその時、横恋慕していた蝮の伝九郎という男が現れるが、お里はその手を払って谷底へ飛び込む。その瞬間に観音菩薩の慈悲の力によってお里と沢市はめでたく命を救われ、沢市の目も見えるようになった、というのが結末である。

  ―― CD:「日本の伝統芸能シリーズ 浪曲[22] 浪花亭綾太郎」,テイチク(1995).


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 2 浄瑠璃「壷阪霊験記」の沢市

 人形浄瑠璃の「壺坂霊験記」は明治初期に成立した。 作者不詳の「観音霊場記」という古い浄瑠璃を、二世豊沢団平・加古千賀夫妻が加筆、改曲してつくりあげたもので、明治12年(1879)、大阪で初演された。 当初は「観音霊場記」の中の一段として上演されたものを、その後、さらに団平が手を加え、明治20年(1887)に現行のものになった。 また、翌年には、歌舞伎の演目としても上演されている。

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 先に見た浪曲は、山道を登る場面から始まるが、浄瑠璃ではその前段がある。
 壷阪観音にお参りをするのは、妻のお里ひとりである。
 お里は三年間日参の大願を立て、毎日朝早く家を抜け出して壷阪寺へ通う。自分をおいて出かけていくお里に、沢市は疑念を抱く。
 お里は恨み嘆いて、

「せつない願いにご利生のないのは、いかなるむくいぞや。観音さまも聞こえぬと。今も、いまとて恨んでいた、私の心も知らずして」

 やがてお里の本心を知った沢市は、心ひそかに命を絶つことを決意する。 そして、死に場所に選んだのが壷阪寺だった。
 妻の勧めで壷阪観音へお参りしてはみるものの、心の底では「どうせなおりはしない」とあきらめているのである。妻のお里とは大違いで、純粋な信心から参詣したのではなかった。

 そのあとのストーリーは浪曲とほとんど変わらないので、ここでは省略する。

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 余談ながら、浪曲で最後に登場した蝮の伝九郎という男は、浄瑠璃では眼九郎という名前になっている。
 もともとは、こんな人物はいなかったのであろうが、文楽や歌舞伎では盲人の沢市は舞台上を派手に動き回ることが少ないため、この眼九郎という悪役を登場させて、沢市の役者が早変わりで二役を演じるという演出ができあがったようである。


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